日常お宝探検隊

30代独身理系男子が、幸福の最大化を目指して努力するけどそもそも方向性が間違ってるブログ

エジプト-イスラエル旅行記vol.6

嘆きの壁を目指して

少し休んだ後、ホテルに荷物を預け、歩いて旧市街方面に向う事にした。

エルサレム旧市街には、周囲がおよそ1km四方の城壁に囲まれている。

この城壁は、16世紀前半のオスマントルコ帝国全盛時代に建設されたらしい。

城壁には周辺8箇所の門があり、僕は新市街から最もアクセスの良かった「ヤッフォ門」を目指した。

ホテルで調べたある個人ブログの情報によると、このヤッフォ門前でもSIMが買えるらしかった。一抹の期待と不安を胸に、門の前まで到着したものの、SIMカード売り場は存在の鱗片すら見つからない。そもそも、やはりシェバットで閉店している店も多い。

シェバット中のヤッフォ門

やれやれ。

通信環境がなければ、城壁内はただの入り組んだ迷路だ。

幸い、GPSで大まかな位置情報は分かるものの、なんだかかんだ感度も悪く、アテにも出来ない。こういう時は、グズグズ考えていても仕方がない。スマホが無い時代に頭を切替え、とにかく前に進むだけだ。

城壁の中は賑やかだ



歩き始めて周囲を見渡せば、そこかしこに名所を示す看板を見つける事ができた。

「The Western Wall →」

「Church of the Holy Sepulchre →」

「Via Dolorosa St →」・・・などなど。

 

西の壁って何だ?程度の知識から、辛うじてオフラインでも確認できたダウンロード済のGoogle mapを見ると、どうやら「The Western Wall」とは「嘆きの壁」の事であるらしかった。

手探りにはなったが、後は看板を追いかければ目的地に辿りつけそうだ。

西の壁?



 

キッパを被る。ゴルゴダの丘に向かう。

嘆きの壁の入口まで到着し、セキュリティチェックを通過し無事入場する事が出来た。

(イスラエルではどこに入るにもセキュリティチェックがある)

嘆きの壁を目にし、「おお、これがあの有名な・・・」と、英名もさっき知ったようなにわかが知ったかぶりでスマホを構えると、係員から注意の声をかけられる。

どうやら、安息日ユダヤ教の礼拝時間らしく、写真撮影が禁止されているようだった。

さりとて、観光はOKとの事だったので、壁に近づき、フリーで借りられる使い捨てキッパ(ユダヤ教徒の小さい帽子)を被り、壁に手を当て周囲の人間と同じように祈りを捧げた。何を祈ったのかはさっぱり覚えていないが、多分すごく世俗的な事だったろうと思う。

この嘆きの壁付近には、世界三大一神教の聖地がひしめき合っている。

 

ユダヤ教嘆きの壁

キリスト教聖墳墓教会

イスラム教の岩のドーム

 

なぜ、異なる宗教の聖地が同じ場所にあるかと言えば、これらの宗教はユダヤ教を元にした同じストーリーを共有しているからだ。

かつて、カナンの地と呼ばれる古パレスチナに、アダムとイブの子孫、預言者アブラハムが流れついた。ユダヤ人の始祖であるアブラハムは、神との契約によってカナンの地を与えられた(創世記)。しかし時を経て、エジプトで奴隷になっていたユダヤ人を、モーセが海を割ってシナイ半島に脱出した(出エジプト記)。その後、パレスチナに戻ったユダヤ人が古イスラエル王国を建国したが、内乱や戦争により王国は解体され、当時隆盛を誇ったローマの属州となった。ユダヤ人はローマへの反乱の末、国への立ち入りを禁止され、またしても国を失う事になった。その後長きに渡り国を持たない流浪の民として生きる事になったのだ。

このローマ統治時代にユダヤ人でありながらユダヤ教の改革を唱えた青年イエスが、彼の死後、神の子と呼ばれ生まれたのがキリスト教であり、その両宗教に登場する神のメッセンジャー、大天使ガブリエルに最後の預言者として神託を受けたムハンマドが興したイスラム教なのである。

(大天使ガブリエルは、ある人間に神のメッセージを伝え、その人間は預言者と呼ばれる。ユダヤ教における預言者モーセであり、キリスト教預言者はイエスだ。ただし、キリスト教ではイエスを人間ではなく、神の子として扱っている所に、ユダヤ教との違いがある。一方、イスラム教ではイエスの神性は否定しているが、2人目の預言者として認めている)

 

頑張って説明しようと思ったけど、中田あっちゃんのYoutube見た方が分かりやすいです。

https://www.youtube.com/watch?v=0a7nINmr_Wo&t=1289s

 

これらのストーリーの中で、古イスラエル王国モーセを祀ったローマによって破壊された神殿の一部が「嘆きの壁」。キリストが十字架を背負い、処刑された墓が「聖墳墓教会」。ムハンマドが昇天する時に残った聖なる岩を祀る「岩のドーム」なのである。

 

嘆きの壁をひとしきり観光し、徒歩ですぐの所にある聖墳墓教会に向かった。ここでも、礼拝場で周囲に習って跪くものの、そもそも異教徒であるためか文化的な違いのせいか、何とも居住まいが悪かった。

聖墳墓教会

看板頼りに「ヴィア・ドロローサ」を歩く。

ローマ統治下で、ユダヤ教の異端者であったイエスが密告により死刑宣告をうけ、十字架を背負いながら磔刑を受けたゴルゴダの丘まで歩いたという有名なストリートだ。

ヴィア・ドロローサ

通りの各所には、イエスのエピソードがいくつも残されており、チェックポイントのようになっている。一見して、とても美しい通りだった。

静かで美しい通り

そんな美しい道を、独身という十字架を背負いながら僕は歩いた。

 

イスラム地区へは入れない。

この旧市街の城壁の中は、4つの民族の地区に区分けされている。

ムスリム地区、キリスト教徒地区、アルメニア人地区、ユダヤ人地区だ。

 

当然、岩のドームはこのムスリム地区にある。

しかし、岩のドーム周辺はなぜかイスラエル軍が厳戒体制を敷いており、入り組んだ城壁のどの通行ルートからも、通行禁止されていた。

話を聞いてみると、イスラム教徒しか入れないらしい。

 

えー、マジかよ!イスラム教徒じゃないと岩のドーム見れないんかー。

と諦めていたが、このブログを書くにあたり調べていたら、金曜と土曜限定で上記なような規制を敷いているとの事だった。別の機会もあったのに・・・残念!

 

チルチルミチル 幸せの青い鳥はステイホテル

 

そうしてスマホも無い中、城壁を歩き回り、最後の足掻きでSIM売り場が空いてないかもう一度確認し(やはり影も形もなかった)、ホテルに戻りチェックインをした。

やれやれ、SIMは明日探すしかなさそうだ。

 

受付には先程とは別の若い男の従業員が座っていた。

自分は日本から来た事、今日がシェバットだと知らなかった事、空港からここまでスマホが無くて苦労した事などを会話していると「そうだ!」と従業員が言った。

 

「これで良ければウチでもSIM買えるよ」

100GBも買えるんだぜ



 

 

「あるんかい!!!」

エジプト-イスラエル旅行記vol.5

ドタバタとエジプト出国

目が覚めた瞬間、目が冴えるようなスピードで身支度を整える。

到着時間にはUberドライバーからのメッセージ攻撃。

「着いたけど、まだ?」

「どこに居るの?」

「着いてるよ」

ヤンデレ彼女っていうか、メリーさんか。

 

奇跡的に数分遅れでドライバーと合流した。

 

エジプトからイスラエルに渡る方法は主に2種類、陸路か空路だ。

陸路の場合、聖書で有名なシナイ半島をバスで抜け、国境越えをする事になる。

既にエジプトとイスラエルは国交正常化しているものの、アラブ周辺諸国との摩擦は今だ未解決のままだ。この国境越えは、そんな歴史の背景の中で自然と厳しいものであるらしい。また、2012年のアラブの春の際には、シナイ半島でテロにより観光客のバスが襲撃される事件が起こっており、半島全域は今だに外務省レベル3だった。

時間さえあれば陸路で国境超えを経験したい気持ちは山々だったが、今回はリスクヘッジを優先し、空路を選択した。

飛行機前で預け荷物を乗客に確認させている(初めて見た)

1時間半ほどのフライトで、あっさりイスラエルに到着した。

ただし空路を使ったとしても、イスラエル空港からの入国は一昔前は「世界で一番入国審査の厳しい空港」の名を欲しいままにしていたらしい。

Welcome to Israel!

ドキドキしながら入国審査の列を並んでいた所、途中で別の場所に誘導され、パスポートと空港内で発券していた滞在許可証を係員に確認される。

(イスラエルのスタンプがパスポートに押されると、周辺アラブ諸国への入国が拒否される可能性があるため、別紙で印刷された許可証を持ち歩く事になっているのだ)

そこで簡単に書類を確認されただけで、「通っていいよ」とあっさり入国できてしまった。時代は変わっているのだ。

通常であれば、空港についた際に現地通貨とSIMを調達する。

しかし、空港のSIM売場がなぜか閉まっている。

閉ざされたSIMカード売り場

時は土曜日の昼過ぎ。

そう、ユダヤ教安息日「シェバット」に思い切りぶつかっていたのだった。

ユダヤ教における安息日は金曜夕方から土曜の夕方まで続く。

この安息日は、僕らが考える日曜日とは概念が結構違っている。

安息日は宗教上において、「働いてはいけない時」なのだ。

ユダヤ教の旧誓約書、創世記にある通り「神は混沌の中から6日で世界を創造し、7日目に休まれた」ためである。

 

このため、売店やカフェはおろか、電車やバスなどの公共交通機関もストップしている。

現地通過はATMのキャッシングにより調達できたが、通信環境はどうあっても手に入らないようだった。一応、事前にシェバット中でも空港からの乗合バスだけが動いている事は分かっていたので、いそいそとバスに乗り込んでイスラエル首都のエルサレムに向かった。

通信環境がなく、どこに向かっているかも分からないバスの中では、スマホがなかった頃の海外一人旅の不安を思い出させた。

乗合バス「シェルート」

安息日エルサレム

乗合バスは、目的地を同じくする客が一定以上揃ったタイミングで出発する(おそらくは民営の)バスだ。大体、10人程度が集まった所で、無事バスはエルサレムに向けて出発した。この乗合バスは、個々の目的地のホテルまで送ってくれる意外と気が利いてるサービスだった。有難し。

乗合バスに誘われるまま新市街のホテルに到着する。すぐにチェックインはせずに、周辺(結構栄えている場所にある安宿だった)をブラついてみるも、やはりシェバットによって街はゴーストタウンのようになっていた。

辺りは静まり返っている

安息日の気合の入り方が違うのだ。

ちなみに、ホテルも絶賛シェバット中だった。チャイムを鳴らしても従業員は出てこない。Booking.comのメッセージを見直し、エントランスの解除コードを入力して(何度か苦戦しながら)ホテルに入る。受付に人は居なかったが、リビングで寛いでいた宿泊客に声をかけると、スタッフを呼びにいってくれた。若く美しいイスラエル人女性が、昼寝起きのような顔で姿を現した。やれやれ、良かった。

「今、もしかしてシェバット中ってやつ?」と僕が聞くと、苦笑しながら「そうよ」と彼女は答えた。

乗合バスといい、シェバット中にサービスを提供してくれるフロントに感謝する以外に言葉がなかった。昼寝を中断してまでも。

シェバット中で、空港でもSIMが手に入らず、電車も動いていなかった事を話ていると、「じゃあ、どうやってここまで来たの?」と聞かれたため「シェルート(乗合バス)を使って」と答えると、彼女は得心のいったような顔で、僕にwifiパスワードを教えてくれた。

Oh my God!

(通信環境は、砂漠での冷水のように乾いた心を潤してくれた)

 

ただし、今はまだチェックイン時間ではないため、時間になったらまたフロントに来るようにとの事だ。

チェックイン前であっても、荷物のデポジット(一時預かり)とwifi、フリーコーヒーが飲める事は、大変に有難かった。

エジプト-イスラエル旅行記vol.4

ハン・ハリーリ市場の人口密度は通勤ラッシュの80%くらい

 大体にして僕は時間いっぱいに予定を入れがちである。エジプト最終日にお土産を買う目的で寄ったハン・ハリーリ市場に着いたのは、すでに夕方近くだった。

ハン・ハリーリ市場入口

 ちなみにエジプトでは、市場の事はスークというらしい。東南アジアの市場でも、アラブの市場でも同じような傾向があるが、とにかく人もモノも、所狭しとギュウギュウに並べ敷き詰められている。

スークの中の灯り屋

 人の活気や、異国の伝統工芸は結構歩いて見ていても飽きない。ただ、あまり眺めていると、しつこい商人に捕まってしまうため、そう長く見ているわけにもいかないのだが。

たまに脇道に逸れても面白い

 ひとしきり歩いた後、スーク内にあるカフェ(これもギュウギュウで狭い)で休憩しながら、ホテルに戻る事にした。Uberを呼ぼうと思っていたが、日の落ちたスーク周辺の人の混雑が予想外だった。日中が殺人的に暑い土地では、やはり人は日が沈んでからが本番だったのだろう。エジプシャンの人波をかき分けながら、3kmくらいはホテルに向かって、いつ途切れるかもわからない混雑の中を歩き続けた。

ロードローラーだッ!

 そうしてとっぷりと日も暮れ、永遠と思えたエジプシャン・ウェーブをようやく抜けUberを呼ぼうと思った時には、既に宿の近くまで徒歩で戻ってきていた。このままホテルに戻ろうかとも思ったが、エジプト最後の夜、僕はあるスポットに行く事をすっかり忘れていた事に思い至った。ジョジョの奇妙な冒険第三部、Dioと承太郎の最終決戦の地!

俺たち出来ない事を平然とやってのけるあの男(出典:ジョジョの奇妙な冒険)

 夜も更け始めた中、Uberドライバーにはスポットである橋の手前で降ろすよう依頼をした。ドライバーも「なんでこんな所で降りるの??」と困惑していた。何でもない橋の端だったから。降ろされた場所から歩いていると、何でもない橋の上にも出店があり、エジプシャンがチルっている。橋の下を流れる川には派手なライトで装飾された観光船、橋から見える景色にはこれまたライトアップされた高級ホテルが目に入る。

最終決戦の地(推定)

カイロはエジプトの首都なのだ。栄えている事この上ない。整備され切った道路にロードローラーを発見する事は遂になかった。

絶望の瞬間

エジプト最後の夜、そして翌朝

 そうして失意の中、酒を買ってホテルに戻った時には、かなり疲労を感じていた。ホテルで最低限の身支度をして、早朝出発に備えてUberドライバーに時間指定で依頼を出しておく。朝に配車手配をして、ドライバーが捕まらないで焦るとかが嫌なのだ。

 最低限の準備を終え、買ってきた酒(エジプトビールに、謎の果実酒)をロビーで煽り始める。

「酒!飲まずにはいられないッ!」

 気が付くと朝日にベットで目が覚める。あれ?と思い、時計を見ると、すでにUberが到着15分前。エジプト最後の夜、一人で飲んで完全に潰れてしまっていたのだった。

 

 

 

俺の時が止まった。

エジプト-イスラエル旅行記vol.3

ハトを喰う。そしてカイロへ戻りマリオットホテルへ。そしてハトを喰う。

 3泊のクルーズツアーも終わり、その日の夜食はルクソールのレストランに一人出向いた。ここで、初めてエジプトワインを飲む。味は・・・、語らない方が良いこともある。温度管理は少し気にして欲しいものだと思った。

エジプトワイン「Omar Khayyam」

 そして初めてのハト食。エジプトはハトを常食するらしい。郷に従い、我も喰らう。

ハト肉の中に米。その付け合わせのライス。

 翌朝、ルクソールからカイロには空路で戻った。クルーズで一緒だった日本人夫婦の一組(インド在住との事)とたまたま同じ飛行機が一緒だった事から、カイロからピラミッドのあるギザでの行動を一緒にする事になった。

 空港からタクシーで直接ピラミッドを観光するため、夫婦が泊まるギザのホテルに荷物を置かせてもらえるとの申し出を頂き、有難く厄介になる事にした。

 彼らのホテルはギザ、マリオットだった。というか、マリオット メナ ハウスカイロそのものだった。

マリオット メナ ハウス カイロ

ホル・ホースボインゴは豪遊していた(出典:ジョジョの奇妙な冒険)

(ジョジョネタである)

 そういえば気がつけば、このエジプト旅行。アブ・シンベル神殿、アスワン、コム・オンボ神殿、ルクソールと、ジョジョ第3部の舞台目白押し。

ジョジョの聖地巡礼 エジプトの旅 まとめ | ジョジョベラー (xn--5ck5a4gob177z170cgian33q.com)

(というか、自分がジョジョを読み、学生時代は仙台(第4部 杜王町)に引っ越した。そして、今年GWにはイタリア(第5部)に行き、夏にエジプト(第3部)にきている。いや、もう絶対イギリスとアメリカ行くやん・・・)

 

ピラミッド!ラクダ!スフィンクス

 そんなジョジョ的倒錯に耽りながらも、ようやくエジプト最大の目的地であったピラミッドにお目にかかる事ができた。

 コロナ中に書いた人生でやりたい事リストに、ピラミッドに登ると書いたいた。実際、一昔前はピラミッドに登るツアーがあったらしいが、度重なる死亡事故により、現在はツアーの催行自体が禁止されているらしいとのこと。残念!

エジプト6日目にしてついに辿り着いたピラミッド

 クフ王のピラミッドの内部見学をした後、しつこいラクダ使いと交渉を進め、なんとか正規料金で話がまとまった。ラクダは思ったよりもデカく、立ち上がると中々のスリルを感じる。

キャメライダーズ

激しく揺れるラクダに乗って、1時間ほどピラミッド周辺を散策し、スフィンクスに辿り着く。The観光地ルートではあるが、テンションはMAXであった。

言わずと知れたスフィンクス

 その後、行動を一緒にしていた夫婦に昼飯を食べ、またもハトを喰らいつつお酒を奢ってもらった。

最初に食べたハトより「モロ」感が強い

 そして世話になった夫婦と分かれ、Uber(原付2人乗りが安かった)を駆使しながらカイロ市内を1人観光した。シタデルのモスク周辺を散策し、有名なハン・ハリーリ市場にいく予定を組む。しかしモスクを見た後、市場に行く途中、Google mapで気になる地名を見つけたため、急遽立ち寄ることにした。

 

「死者の街」ネーミングに厨二心が震えるぜハート!!!

 Uberドライバーも目的の場所に迷いながらも到着して見ると、「死者の街」はスラムというか、完全に貧民街のようだった。僕のような観光者は全くおらず、現地の住民だけが日差しを避け、通りに座りこんで談笑している。僕は完全に異物だ。

 カイロ市内でも、いつから存在しているのかわからないくらい古い石作りの建物が多く存在し、そこに現役で人が生活を営んでいる。この死者の街も、古い墓地を中心に、住居が点在しているような場所だった。物好きな東洋人が通りを歩けば、物珍しさに住人が振り返ってくる。

死者の街、にも当然生者が住んでいる

 

 しばらく歩いていると、小さな女の子が僕の前に踊り出してきた。

 

「シットダウン!」

 

 片言の英語で、好奇に満ちた微笑みで家族団欒の場に僕を招き入れてくる。住居の前で10人くらいが輪になって座っており、半数以上は小さな子供だった。僕を招き入れてきた女の子が一番年長だろう(8〜9歳くらい?)。好奇心に駆られて、外国人の僕に声をかけてきたようだった。

 お互いにカタコトの英語で会話を試みるが、なんとか自己紹介をするだけで、会話は中々難しい。お茶も勧められたが、残念ながら初日の腹痛の記憶が蘇り、丁重にお断りした。

 大家族だ。子供も多い。おじいさんも何を喋っているのかは分からないが、家族の中にちゃんとした一体感というか確保された居場所みたいなものを感じた。これが家族なんだ、と1人暮らしが長すぎる孤立した日本人的ライフスタイルの僕には、ふと感じ入るものがあった。

 会話が途切れ途切れになる中、ふいに年長の女の子が「ビューティフル」と僕の顔を見て言ってきた。びっくりした僕は「何が?」と微笑んで聞き返すと「あなたのお髭、ビューティフル」と言う。確かに僕のあごひげは、1週間のエジプト旅行中ですっかり蓄えられ、アラブ人顔負けの毛量になっている。

 こっちの感覚では、髭に美的感覚があるのか!と驚きつつ「君の方がビューティフルだよ」とホル・ホースさん顔負けのキザ返答をして、その場の気恥ずかしさを誤魔化した。そんな現地の人たちとの貴重な交流の後、僕はハン・ハリーリ市場に向かった。

エジプト-イスラエル旅行記vol.2

ナイル川クルーズへ

 翌日、旅の中で唯一ツアーとして予約した「ナイル川クルーズ」に参加した。アスワン市内観光、さらに車で300km南下してアブ・シンベル神殿観光の後、クルーズ船でナイル川を北上しながらルクソールまで移動する船上3泊のパッケージ・ツアーだ。

豪華(?)クルーズ船

 ツアーには、2組の日本人夫婦も参加していた。今回の旅行でまともに日本人に会ったのは、ほとんどこれが最後だったかもしれない。

 

アスワンハイダムは世界史の教科書に載っているらしい

 1964年、エジプトの電力安定化を目的に旧ソ連のバックアップで建設された、ナイル川をせき止める巨大なダム、それがアスワンハイダムだ。高校生の時には世界史の授業でコックリしていた記憶しかない自分でも、古代エジプトではナイル川の定期的な氾濫で下流の土壌に肥沃を与えていたという事だけは何となく覚えていた。

(Fate知識かもしれない※アニメ)

ウェルカムボード(?)

 この巨大なダム建設の結果、カイロのような下流域での治水に成功したが、引き換えに土地はやはり痩せていったらしい。また、Google mapで見ても分かるダムの上流域にある巨大化な湖(ナセル湖)も、このダム建設により誕生したらしいというから驚きだ。人間の力は、地形をこんなにも変えてしまうのか。

アスワン・ハイダム

 その他も、ナセル湖の形成で一部の遺跡が沈んだり、ナイルワニが上流に来れなくなったりと、様々な影響をもたらしているらしいが、生活の中で人々は変化に慣れていったのだろう。

 この後、神殿を一通り回った後、オプションツアーに参加して小型船で少数民族の町(完全に観光地化されていた)を訪れたり、ナイル川に飛び込んだりしてみた。若干の体調不良を誤魔化しながら・・・

少数民族の住まうナディラ村(超観光地)

ナイル川にて熱さまし

 

ひたすら砂漠をバスで移動しアブ・シンベル神殿

 船の個室に泊まって翌日、早朝4時集合でスーダン国境ほど近くのアブ・シンベル神殿を目指した。道中は完全に砂漠であり、何をするでもなく300kmの道を4時間半ほど何をするでもなくひたすら南下した。

砂漠をひた走るバス

バグダッド・カフェを想起させる

 アブ・シンベル神殿はBC(紀元前)にラメラス2世というファラオによって建築が進められ、1250年頃に完成したという。ちなみに、アブ・シンベル神殿もこのダム建設の影響で沈む事が分かり、国際機関が共同で高台に移設するプロジェクトを行ったとの事。この機関が、今のユネスコになっていったとの事だ。

アブ・シンベル神殿

 でかい、そして暑い。この時には、すでに下痢と微熱が出ていて体調が思わしくなかった事もあり、灼熱の大地と自分の発熱の違いがよく分からなくなっており、関節の痛さだけが記憶に強く残っている。

 

神殿を見る。神殿を見る。神殿を見る。

 行った道は引き返さねばならない。神殿の滞在は1時間だったが、フェリーに戻るためにまた4時間半かかった。そこから遅い昼食を食べ、また神殿を見る。

コム・オンボ神殿

美しいレリーフ

 フェリーに戻って夕食を食べる。毎日毎夜、エジプト料理のバイキングで腹がパンパンになるまで詰め込んでしまう。このタイミングで、2日前に乗り込んだ豪華客船はようやくアスワンから北へ動き始めた。今まで、ずっと停泊していたのだ(これまで、停泊したフェリーに泊まっているだけで、まったくクルーズ感はなかった)

 そうして一日が終わり、ようやくクルーズらしく移動する船内で眠り、また次の日は朝5時集合。

シルバーチャリオットではないが馬車

エドフのホルス神殿

外壁のレリーフ

 遺跡と遺跡をつなぐクルーズでは、ちょっとしたセレブ体験。

デッキで飲むピニャコラーダ

船上プールで外を冷やし、ステラビールで内を冷やす

 プチセレブ気分に気持ちよくなっていると、目的地のルクソールに到着。

 そしてまた遺跡巡りへ。

カルナック神殿オベリスク

ルクソール神殿

ルクソール神殿カルナック神殿を結ぶ、スフィンクス街道

気球に乗る、また神殿を見る

 クルーズ船の夜は、パーティーベリーダンスなど、乗客を飽きさせないように随時イベントが行われていた。

 ふと、出先から部屋に戻ると、お茶目なサプライズも用意されている。

シングルベッドに紛れ込んだインテリ・ナイルワニ

 この日は、最終目的地のルクソール泊だったが、最終日もやはり早朝5時集合だった。ツアーのパッケージに、なぜか気球に乗るイベントが入っていたためだ。いい加減、毎日朝が早すぎる。

 眠い目をこすりながら気球乗り場に着き、気球が膨らむのを待つ。結局、1時間以上待ったと思う。一緒のツアーに参加したヨーロピアンはキレていた。

「クレイジー!」

立ち上がる気球

 気球に乗ったのは初めてだったか、2~3回目だったか。もはや覚えていない自分に少し戦慄しつつ、40分ほど空中遊泳を楽しみ、終着点にワイルドに着地する。原始的な着地の緊張感が、一番スリリングだった。

横並び気球

荒野に降り立つ気球

 その後、王家の谷を訪れた。歴代のファラオが埋葬された切り立った岩場だ。あの有名なツタンカーメンの墓もここにある。昔は、「墓泥棒の町」などと言われ、住人は墓の盗掘により生計を立てていたらしい。

王家の谷

 いくつものファラオの墓が洞窟として密集しており、中に入れば華美な装飾の竪穴を見ることができる。厄介なのは、人気のない洞窟の前のモギリの男で、頼んでもいないのに後ろをついて押し付け観光案内をし、終わったらチップを要求してくるのだ。時間がないと言っても聞いてくれず、駆け足でついてきて勝手に説明をしてくる。時間がないからチップを渡して立ち去ろうとしても「少な過ぎる!」と文句を言ってくる。理不尽だ。

 その後、ハトシェプスト女王葬祭殿を観光。神殿に次ぐ神殿である。

ハトシェプスト神殿入口。

アヌビスのレリーフ

神殿に次ぐ神殿に、読者諸兄に置かれても、いささか飽きておられる事は想像に難くない。言うまでもなく、僕にとっても。

エジプト-イスラエル旅行記vol.1

旅の行き先

 2023年8月。仕事で長年関わってきた大きなプロジェクトがほぼ完了し、ブラック社畜生活が一旦終了したタイミングで、僕はコロナの明けた盆休みを利用して旅に出ることにした。

 行き先はエジプト。アフリカ大陸に行きたかった。そして、ピラミッドを見たかったし、ラクダに乗りたかった。コロナ期間中に書いていた死ぬまでにやりたい事リストの中に、そういう件(くだり)があったのを思い出したからだ。しかし今回のタイミングに、誰も口にはしないが、高度に空気を読んでみると、通常の盆休みにプラスして、有給をもう一週間追加できそうな機運を感じていた。

 地球の歩き方を見ても、エジプトの主要の観光地をゆっくり回ってもせいぜい1週間で十分。もう一カ国くらい、アフリカ大陸の国を旅してもいいのかもしれない。

 しかし、外務省の渡航状況を見ても、アフリカ大陸はどこも危険を示すイエローからレッドゾーンでキレイに塗り潰されている。比較的、治安が良さそうなモロッコは地理的に離れすぎていて、旅の連続性みたいなものが途切れる気がした。

 そして世界地図を見ていると、アラビア半島の根本に小さく出っ張った、控え目な大きさのシナイ半島が目に入る。今はエジプトの領土ではあるが、シナイ半島を抜ければ、そこはイスラエル。アフリカ大陸からは出てユーラシア大陸に戻ってしまうものの、いつもニュースで中東のテロだの領土問題などを耳にしては、今ひとつ、いや何ひとつ歴史や土地、紛争問題の焦点が頭に入ってこなかったユダヤ人の国。

 イスラエル。ここだ。

 こんな感じで、今回の旅の行き先は、出発の10日くらい前に適当に決まったのであった。

図書館で借りたガイドブックたち

会社の休み方

 出発の一週間前、全ての予定を立て、飛行機・ホテル・現地ツアーなど、1日でほぼすべての事前予約を手早く、しかし気合いで済ませる。旅人歴10年超、コロナ禍でブランクはあるが、旅行準備は達人の域にある感もあるが、いつになっても余裕をみたスケジューリングができないのは、もはやに業の域であるのか。

 旅行準備には、色々な迷いがある。

 本当にこんな無茶苦茶な日程で旅行出来るのか?天気などは大丈夫か?休みをこんなに取って大丈夫なのか?こんな時、僕は最初に最も高額の航空券をキャンセル不可で予約する。それまでにあった不安や迷いは全て吹っ切れ、自分の旅人としてのスイッチが入り、テンションMAXで覚悟が決める。

 そうして全ての予約をした週明け、上司に電話で「盆休み、一週間延長します」と伝える。2言、3言交わした後、「これは相談ではなく、報告です」と言い放ち、休みが確定するに至った。長期連休の後、僕の席が消滅していようと構わない。今の僕はサラリーマンではなく、航空券を持った旅人なのだ。少なくとも旅行が終わるまでは。

直前の格安航空券のトランジット祭り

 当然、僕が買う航空券など、価格重視に決まっている。

 エジプトのカイロまでは成田からの直通があるにはあるが、僕の便は成田→カトマンズ(ネパール)→ドーハ(カタール)→カイロの2回の乗継があった。カトマンズなんて、村上春樹の小説(ダンス・ダンス・ダンスで、アメという写真家が娘のユキを札幌のホテルに置いてカトマンズに急に行ってしまう)くらいでしか印象がないが、成田から乗り合わせたネパール人と会話をしながら、トランジットで 小一時ほどしか滞在しなかったカトマンズにもいつか訪れたいという興味が出てきた。次に乗り継いだドーハは「悲劇」しか連想できないが、スポーツに疎い僕は、それがどういうことなのかも分からないまま何の感傷もなくカイロに向かうのだった。

カトマンズ空港前

ドーハ空港の中の謎の巨大ぬいぐるみ

カイロ着AM2:00

 飛行機が若干遅れ、到着は深夜も深夜であり、初アフリカ大陸上陸の感動は、疲労によってやや割り引かれていた。しかし深夜であっても、空港内でSIMは購入できるし、円をエジプトポンドにも両替できたのは有り難かった。

エジプシャンポンド!

 インドの並び称される、「世界3大ウザい国」と不名誉極まりないカイロ空港のタクシーの客引きだが、確かにまあまあウザかった。しかし、今は2023年。現地SIMを手に入れた僕は、客引き運転手を無視して華麗にUberを使い適正料金でタクシーを手配するのであった。(旅慣れてくるとトラブルを未然に回避する方法に熟達し、概して旅は面白みを欠いていくものなのだ)

深夜のカイロ空港前。血に飢えたタクシードライバーの狩場。

ホテル(部屋の間貸)着AM3:30

 なんだかんだ言いつつ、空港近くの宿まで着くのに時間がかかった。

 次の日は、夕方にエジプト南部のアスワンにフライト。時間を効率的に使い、明るくなったら車で40分程にあるギザのピラミッドを見にいこうと心に決めていた。

 しかし、こんな時間に本当に宿にチェックインなど可能なのだろうか?

 深夜のカイロの住宅街で、Google mapで指定した場所に到着したものの、まるでホテルらしい場所はない。しばらく周辺を見た後、意を決して宿に電話をした。数コールの後、ホテルの受付に繋がった。電話に出てくれたのにホッとしながら、道路まで出てきてもらうこととなり、部屋に案内してもらう事になった。エジプト最初の夜(朝)を明かす宿は、古いマンションをリフォームした部屋を間貸するスタイルの宿だった。ちなみに、貸主も同じマンションの別の部屋に寝泊りしているらしい(Airbnb方式なんだろうか?)

 すでに深夜というよりは早朝に近い時間。こんな時間にチェックインさせてくれた貸主に感謝しつつも、明日からの観光のため、早めに床に着こう・・・としたのだが。

 その後、お話好きな家主の会話が終わらず、眠りについたのは朝5:30だったのだった。

さっそく予定変更

 深夜到着して、ひと休みしてカイロの隣にあるギザのピラミッドを見て、夕方の飛行機でエジプト南部のアスワンに向かうこの計画。予想はしていたが、AM11:00くらいに起床した事により、あっさり変更を余儀なくされた。

 エジプト最終日にはカイロに戻って丸1日観光の時間は残っていたため、割とすぐに意識を切り替えることができた。ピラミッドは最後の楽しみとする!

 この日は、エジプトの初昼ごはんとしてコシャリを食べ、エジプト考古学博物館とカイロタワーに登ってビールを飲み、深夜についた空港に戻ってさっくりとアスワンに向かい飛行機に乗った。

短いマカロニ、パスタ、ご飯、豆が入った謎の料理コシャリ

カイロタワー。高い所には上りたくなるが、後悔しがち。

この先お世話になりっぱなしのステラビール

 

アスワンにて不毛なタクシー交渉

 エジプト国内線に2時間程乗り、夕方アスワン国際空港に到着した。

 空港からアスワン市内には車で40分。バスもなく、タクシーを使うしか手段はない。エジプトやインドでタクシーを交渉する事とエネルギーを浪費する事は同義。

 しかし僕にはUberがある!エジプト、余裕だぜ!!!

 

 ・・・と思っていると、Uberのドライバーが周辺で検索できない。大都会カイロと違い、まだまだ田舎のアスワンにはUber文化が浸透していなかったらしい・・・。

 たまたま同じ飛行機に乗っていた韓国人の男女に声をかけ、3人でタクシー交渉をする事になった。しかし、タクシーの数も限られているらしく、交渉を進めてもどのドライバーも同じような値段で談合しているらしく、強気の姿勢を崩さない。

 3人のドライバーと不毛な交渉をした後、僕らは諦めてボラれる事にしたのだった。

安宿inダウンタウン

 さて、アスワンで僕が予約した宿は、当然ドミトリー(同じ部屋に2段ベットなどが複数ある寿司詰め部屋)の安宿だった。タクシードライバーは、同じ市内ですぐ近くなのに、僕と韓国人らを別々の場所に降車させる事に文句を言い始めた(料金をさらにボロうとした)ため、面倒になり僕は彼らのホテル(高級)から歩いて宿に向かう事にした。

 何、たかだか10分歩くだけだ。

 そう思っていたが、夕闇の空の下、見る見る内に街の灯りは暗くなり、寂れたダウンタウンへとGoogle mapが僕を導いていく。僕の不安を他所に、薄暗い古い石造の建物の近くでは、地元の子供達が、楽しそうに遊んでいる。

(昔訪れたイランでもそうだったが、日中暑い地域の子どもは日が沈んでから遊ぶのが一般的なのだ)

 そして、物珍しいアジア人に「Hello!」とか「Look at me!」と行っては、声をかけてくる。それ自体は可愛いものなのだが、周りは完全に寂れた暗がりのダウンタウン。僕の宿はどこにあるのだろうか。。。

ディナーを求めて

 宿にチェックインしたものの、そのままゆっくりするのでもなく(腹が減っていた)、ディナーを求めて暗いダウンタウンの同じ道を引き返すことになった。どうやら、近くに食堂は全くなく、街まで戻るのに徒歩で40分ほど必要らしい。少し歩き、ダウンタウンの通りでトゥクトゥクを見つけたため交渉してみるも、トゥクトゥクでは大通りに出る事はできないため、タクシーを捕まえろ、と言われた。

 仕方なしに歩いていると、中心街になるにつれ辺りは明るくなっていく。ナイル川沿いを歩き、観光船の客引きに声をかけられながらも、エジプシャンディナーを求めてマーケットの中を歩いた。

 

 Google mapで選んだ評判の良さそうなレストランにようやく到着し、まともな食事にありつく。ケバブ

「日本人か!日本いいよな!ベリーグッド!」みたいな調子で店員に声かけられながら、エジプト料理を平らげる。当然、酒はないためストイックな食事だ。

エジプトのスタンダードなレストラン料理。

 そうして、腹を満たし、レストランを出るタイミングで急に店内が暗くなった。停電だ。料金を支払い、マーケットに出ると、通り全体が暗くなっている。聞けば、よくある事なんだとか。日本で停電が起こったのなんて、以前はいつの事だっただろうか?

日常茶飯事の停電

 帰り道は、行きとは違う暗がりのマーケットを歩きながら、割と楽しんで歩いた。珍しいアジア人だという事が暗がりでバレずに、声もかけられなかった。

北インド旅行記vol.5

思ったより(思った通り?)ブログが長くなってしまいましたが、これで完結予定ですw

最後はさっくりまとめます。

 

さらばバラナシ、いざ行かんジャイプールへ

様々な刺激とインド的興奮を与えてくれたバラナシの3日間の滞在時間も、あっという間に過ぎてしまった。正直、もっとゆっくりしたい気持ちに後ろ髪引かれながら、朝からオートリキシャーに乗り込み、移動を開始した。

今度は飛行機で。

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デリー~バラナシが約800kmの道程、バラナシ~ジャイプールもほぼ同じ移動距離にも関わらず、移動時間は電車と国内LCCで10倍程異なった(待ち時間含めると20倍くらいか・・・)。

悪い事は言わない、インドで効率的な移動をしたかったら、電車はチョイスすべきではない。そもそも、効率を求めるならインドに来たいなんて思っちゃいけないのかもしれない。

 

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こうして効率的に辿り着いたジャイプールという街だが、またの名を「ピンクシティ」というらしかった。なぜなら、多くの建物の色がピンクだからだという事だったが、色合いに風化でどう控えめに見てもピンクには見えなかった。

 

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写真はアンベール・フォート。

ジャイプールには、この他にもいくつかの観光名所があるが、正直僕はあまりこの街を楽しむ事が出来なかった。

 

なぜなら、観光しながら、完全に発熱にやられていたからである。

 

 

 

最終日近くになってようやく来た最大の観光名所

ジャイプールには一日しか滞在せず、やはり回復しきらないままの体調のまま、また早朝電車に乗り込みアーグラに向け出発した。

 

アーグラに来た目的については、あまり説明の必要はないだろう。

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言わずと知れた、タージ・マハル。

どこかの時代の王様が、最愛のお妃のために国の財政が傾く程の財をつぎ込み完成させた執念を感じる巨大な墓標。

病的なまでに白く、シンメトリックな建造物は、噂にたがわぬ程美しい迫力を発していた。

 

 

そして、帰路へ

色々なトラブルがあり、どうなるか心配だったインド旅行も、タージ・マハルまで辿り着き、無事この目にする事が出来た事で、かなり肩の荷が下りたような安心感があった。

この後は、アーグラ在住の知人のインド人と会い、デリーに戻りもう1日観光した後、日本への帰路についた。

 

この旅、中盤の盛り上がりが個人的にすごく、終盤は慣れもあってか、かなり予定通りに事が進んでしまったため最後にカタルシスでまとめる事が難しくなってしまいましたw

 

ただ、本当に個人的な事だけど、ずっと行きたいと思っていたインド一人旅行に来る事が出来て、本当に良かったし、自分の財産になったと思う。

 

20代の頃のように、インドに来る事で世界感が変わった、なんて事は正直30代の僕にはなかったかもしれないけど、それでも底抜けのエネルギーを感じる事は僕にもできた。

 

この旅行記が誰に読まれるかは分からないけど、もしインドに旅行にいきたいと思いながら、色々な理由でいけない人がいるのなら、この文章で少しでも背中を押す事ができればと思う。

何が起こっても、たぶん大丈夫。

 

This is india.

Everything is possible.

 

 

なのだから。

 

それでは、長い旅行記でしたが、読んでくれた人がいたらありがとうござました!

 

 

 

 

P.S.

体調ですが、飛行機で日本に帰ってきた瞬間に全快しましたw

やっぱり、病は気からなんですかね~(笑)