エジプト-イスラエル旅行記vol.13
テルアビブ朝散歩、時間つぶしに美術館鑑賞
イスラエル最終日、午後のフライトまでフリーな時間があったため、割合ゆっくり過ごした。朝、ホテル周辺をビーチ沿いに散歩し、ブラブラ観光してみる。
夢のようなスイートルームをドミトリー価格で提供してもらったホテルをチェックアウトした後は、テルアビブ美術館を訪れる。規模も大きく、近代的な美術館だった。
駅まで徒歩移動すると、再び大都会テルアビブを感じる事ができた。本当に都会だ。
そして空港へ・・・
時間いっぱいまでテルアビブを楽しんだ後、電車一本分の余裕を保って空港行きの電車に乗り込む。
ああ、不安もあったイスラエル旅行も、どうにか生きて無事に日本に帰れる事が出来そうだ(振り返ると、こう思えた自分は本当に幸運だった)。
そう安心感に包まれながら、スマホをボーッとを見ていたら、気がついたら電車は空港の駅を通り過ぎて、15分先の駅を目指していた。
最後の最後に、初歩的なミスである。
一人、ダラダラと焦りながらも、次の駅から、空港にトンボ帰りをして事なきを得た。
こうして僕のエジプトーイスラエル旅行は終わった。
旅を終えて
旅を終え、この旅行記を書き終わる前に、ガザ地区でイスラム過激派ハマスによる大規模テロが実行された。数百人のイスラエル人被害者を出し、イスラエル側の報復による民間人を含めたアラブ側の死者も日を追う毎に増え、1000人を超えたとの報道を耳にした。
状況は刻一刻と変化し、イスラエルの首相はついに戦争状態にある事を公言した。1973年の第4次中東戦争に続く、第5次中東戦争が始まったのだ。
ロシアによるウクライナ侵攻、中国による台湾有事、そしてハマスによるイスラエル大規模テロ。世界から大規模な軍事衝突が減り、国家間の物流がスムーズになり、確実なグローバル化の流れにあったここ30年の僕が知る世界がどんどん変わってきている。
行きたい時に、行きたい場所に自由に行く。
徐々に衰退しているとは言っても、まだまだ豊かな日本に生まれた幸運の特権を使ったとしても、そういう自由がどんどん減っていく時代に突入してしまったのかもしれない。
世の中の大きな流れや、歴史を通じた人々の恨み、国家間の戦争に関して、誰の手にも余る問題だ。今、自分に出来る事と言えば、おそらく数年に渡って気軽に行けなくなってしまったイスラエルの状況を、ブログで公開してみる事くらいなのかもしれない。
イスラエルは、興味深く、魅力的な国だった。
それは、歴史、金、宗教といったあらゆる人間も矛盾が渾然一体となってそこに存在していたからだと思う。今回、その歪みがまた噴出してしまったのだけれど。
まだまだ、世界で行った事のない、行きたい場所が沢山ある。
これから世界がどのように変化していくのか予想は難しいけれど、行ける時に、行きたい場所に行ける自由を選べるような人間であり続けたいと願っています。とても無責任なのかもしれないけど、知らない場所や国に行くたびに、世界が自分事になっていく感覚が、やはりたまらなく好きなのだ。
僕個人としては、タイミングも良く、すごく意義深い旅行だった。
本当に、今はとても深刻になってしまったが、この旅行記を通じて少しでも世界で起きている現状について、読者の皆様の理解を深める一助になればこんなに嬉しい事はありません。
それでは、長くなりましたが、お付き合いありがとうございました!
エジプト-イスラエル旅行記vol.12
ウェルカムドリンクまでの暇つぶし
奇跡のスイートルームにチェックインした後、オーシャンビューの部屋をひとしきり楽しみ、僕は荷物を置いて市場に出かけた。
ホテルのウェルカムドリンクが一杯無料サービスだったのだけど、夕方からの提供ということで、少し時間があったのだ。
電動キックボードで市場に出かけ、お土産を探す。
アクセサリーショップでイスラエル人店員に「日本人ですか?」と日本語で話しかけられる。
驚いて会話してみると、昔15年ほど日本で働いていたとの事。
日本人女性と結婚し、子供もいるけど、イスラエルに家族で帰った後、奥さんは子供を連れて日本に帰ってしまったとの事だ。
「どういう事か、わかりますか?」
寂しそうに笑うイスラエル人男性の日本的コミュニケーションに、僕も日本的曖昧さで神妙に頷いた。
彼の店からは、いくつかアクセサリーを買った。交渉した所、いくらか値引いてくれもした。
日が少し傾くまで市場で買い食いしながら過ごし、ホテルに戻った。
そしてホテルの屋上のバーで飲める無料のウェルカムドリンクは最高に優雅な気持ちを僕に与えてくれた。
地海の中のビーチへ
スイートルームに戻り、テルアビブの駅近スーパーで買ってあった「ヤルデン」を開ける。日本ではあまり見かけない種類だったので購入したが、やはり現地スーパーでのヤルデンはお求めやすかった。
ワインを入れ、少し気分がよくなった所で窓からビーチを見ると、地中海は西日により朱色に染まりつつあった。
僕はいそいそと水着に着替え、ラッシュガードを纏い、サンダルでビーチに向かった。
もう直に日は暮れようとしている時間にも関わらず、ビーチにはまだ沢山の人間が楽しんでいた。
僕も海に入り、地中海を体で感じる。
少しばかり泳ぎ、遊泳エリアの端に浮かぶブイを掴みながら、地中海に沈む太陽を眺めた。
エジプト-イスラエル旅行記vol.11
予定変更
もう旅は終盤戦で、ナザレからはテルアビブまで移動し、旅の最後の拠点とする予定だった。しかし、ナザレでの退屈感を持て余し過ぎ、刺激を求めて急遽ハイファに立ち寄る事にした。
ハイファはテルアビブ、エルサレムに続くイスラエル第三の都市だ。
そうは言っても、観光名所がそう多いわけでもなく、なぜか科学館に入った。
家族連れが多く、子供が元気に遊び回っている楽しい場所だったが、化学業界でエンジニアを10年以上続けてきた身として、改めて興味深く展示物を見て回るのであった。
そして時間もあったため、バハーイー庭園に向かう。
バハーイー庭園はハイファの象徴的な観光地で、少数宗教のバハーイー教の聖地であり、世界遺産であるとの事だった。庭園の中まで行くには予約が必要で、高台から外から見下ろす形にはなったが、中々荘厳な景色だった。
そうしてハイファにも満足がいくと、ようやくテルアビブに向かう事にした。
イスラエルではバス網が非常に発達しており、これまで通りバスで向かう事も出来たが、あえて初めて電車を利用してみる事にした。
大都会テルアビブ
テルアビブ中央駅を降りると、圧巻の高層ビル群に気圧される事になる。
中東は危険な雰囲気?未だ発展途上のテロが多発する危険国?
いや、テルアビブはバリバリ先進国で、なんだかヨーロッパ感さえあった。
(実際、この後ガザ地区周辺では大規模テロが起こるわけだが)
駅近の大型スーパーでお土産やら酒やらを物色した後は、ヨーロッパでもお世話になった電動キックボードを活用し移動の足とした。
ロスチャイルド通りを通りホテルへ
なんだかアーティスティックなストリートを越え、ビーチ近くのホテルに辿り着く。結構、立派な佇まいにちょっとビビる。これがこの旅最後の宿だ。
勘違いしないで頂たいが、このエジプトーイスラエル旅行は極力コストを抑えたバックパッカースタイルを取っている。これまで、初日やクルーズ船以外は、すべてドミトリーで相部屋に宿泊する事で、宿代を安くしてきた。
しかし、旅も終盤戦、そろそろ一人でゆっくりしたいという気持ちも高まっていたが、残念ながらこのホテルでもドミトリーで予約を取っていた。
「ああ、今からでも一人部屋に変更できないだろうか」
僕はそう思わざるを得なかった。
そうしてフロントでチェック・イン手続きをしていると、受付の美女が「あら」と目を丸くした。
「あなたラッキーねえ。スイートルームに無料で変更になったわよ」
聞くと、完全にランダムで空いているスイートルームに変更する場合があるらしかった。
ナザレではキャンセル料を取られテンションが下がっていたが、捨てる神あれば拾う神ありとはこの事か。
この時の僕のテンションはこうだ。
ヒャッハーッ!!!!!!!!!!
エジプト-イスラエル旅行記vol.10
オリーブの丘に登る
パレスチナ自治区、死海に行くための拠点としていたエルサレムも、この日で3日目。
イスラエル北部の街「ナザレ」に移動する日であったが、午前中に時間があったためエルサレムで回りきれなかった場所を転々と見て歩いた。
新市街から城壁内の旧市街をはさみ、反対側にオリーブの丘がある。交通網の発達したバスを乗り継ぎ、丘の頂上を目指した。
(ところで、Google mapの機能拡張に驚くばかり。行き先を検索するとバスの時刻表もルート検索も、現在の運行情報すらわかるのだ。旅行のハードルは本当に年々下がっている)
何があるとも特に調べていなかったが、教会や大規模なユダヤ人墓地が、眼下の聖地に向かい広がっていた。
狭い道を歩けば、石作りの通りは美しい。
墓参りをしているだろうユダヤ教徒(ジューイッシュ)たちが路肩に狭い道に車をとめていた。
頂上に特に何かがあった訳でもなく、ピストンで降りる事にして聖地をよく見ると、イスラム教の聖地「岩のドーム」が目に入った。直接行くことは叶わなかったが、一目見る事ができて幸運な気がした。
(実際には、この日ドームまで行けば観光できたはずなのだが)
この後、バスを乗り継いで死海写本館に足を運んだが、残念ながら営業時間外で入る事ができなかった。
(併設された博物館は面白かった)
ナザレへ
エルサレム観光に思い残す事もなくなり、ナザレ行きのバスに乗り込んだ。
余談だが、このバスの中で旅行前に予約していたナザレの宿がポルトガルにある同名の町「ナザレ」と間違えていた事に気がついた。What's upによるチャットでの交渉虚しく、キャンセル費用を満額取られ、テンションはダダ下がりであった。肝心のイスラエルにあるナザレの宿はそれからでも問題なく予約できたため、泊まる場所に困る事はなかった。
ナザレは、聖母マリアが大天使ガブリエルより受胎告知を受け、イエスが幼少期を過ごした街だ。当然、観光の要所は受胎告知教会となる。
(なぜか、受胎告知教会は2つある。どうやら、異なる宗派が別々に建築したらしい)
しかし、ナザレの街はこじんまりとしており、観光出来るスポットは少ない。
午後2時くらいから観光開始するも、教会や街歩きを一通りすると、すぐに見るところを思いつけなくなってしまった。
熊のようにひたすら歩きながら、クラフトビールを飲んだり、シャワルマにかぶりつきながら、退屈していた。
刺激だ。
マスタードでは足りない、刺激が欲しいのだ。
目を血走らせながら刺激を求めて街を歩くが、どこにも心躍らせるものがない。とにかく、退屈だった。
刺激に飢えた心でホテルまで戻っていると、不意に現れた子猫に目を奪われた。乾いた胸中に一時の安らぎを得たりしながら、何だか上手く行かないナザレの夜は更けていくのだった。
エジプト-イスラエル旅行記vol.9
死海へ向かう
「死海」を英語で何というかご存じだろうか?
「DEAD SEA」そのままである。
この日も朝早くからバスステーションに向かい、ヨルダン国境となっている死海を目指す。前日に引き続き、パレスチナ自治区を通過しながら数時間のバス旅行だ。
なぜか、Google Mapで示された番号のバスに向かうと、「これは死海には行かないよ!」と追い返され、朝から1時間程待つ事になったのは地味なストレスだった。
本当にあのバスは死海に向かわなかったのだろうか?
死海ビーチがある街の途中、マサダという遺跡があるようだった。
古イスラエル時代の紀元前120年に建てられた要塞であるらしい。
バスを降り、灼熱の太陽が容赦なく照り付ける中、砂漠地帯の切り立った山の頂上にロープウェイで向かう。
死海ビーチのある街エンボケックは、完全なるリゾート都市であった。
高級ホテルに泊まる富裕層が使う有料ビーチがあるようだったが、僕はもちろん無料ビーチに足を進めた。
無料ビーチと行っても、公共の着替え場やシャワーもあり、パラソルとベンチまであった。言う事無し!と思い、死海でプカプカ浮かんだり、泳いだりと一通り楽しんだ。
ちなみに海とは言うものの、実際には内陸にあるため死海は塩湖である。
水の逃げ場がなく、周辺の岸壁から染み出した塩分が高温で水分が蒸発する事で濃縮されている。
通常の海の10倍の塩分濃度である死海は既に塩の過飽和溶液となっており、その味はしょっぱいというより、マズイ。人間の舌が何かを判断できる領域をとうに超えていた。
この塩分濃度のために魚などの水生生物が居ない事により、死海などと呼ばれてたり、浮力があがって人体が沈みずらくなっているのだ。
後で分かった事だが、死海の中で泳ぐ事は基本的に推奨されていないらしい。
不意に水を飲みこんでしまった場合に、人体のミネラルバランスが崩れ危険な事や、肺機能障害で最悪死ぬからとの事。また、析出した尖った岩塩が死海の底に多数沈んでいるため、サンダルが必須との事だ。高濃度の塩分で、もし体に傷があった場合や、目に水が入った時には、激痛を伴う事になる、と。
僕は、素足で死海に入り、泳ぎ、目に水をしっかり入れて死海体験を丸ごと済ませていたのであった。
そして、一通り遊んだ後にゆっくりベンチで過ごしていると、係員からベンチ使用料を請求されもしたのだった。トホホ。
イスラエルでワイン、そしてビール一人飲み
イスラエルワインは日本でも結構有名で、「ヤルデン」という商品が良く知られている。コロナ渦の初期、渡航制限により旅行が出来ず頭がおかしくなりかけた(もうおかしいのかもしれない)僕の不満を解消する手段として、ワイン始める事にしたのだった。
世界におけるワインの歴史は長く、世界中で作られている。
ワイン大国フランスから始まり、イタリア、スペイン、ポルトガルといった西欧から、東欧、アメリカと、ワインを通して脳内旅行をしていたのだ。
その中で、中東イスラエルワインに出会い、本場に来たからには、是非ともテイスティングにあやかりたいという下心満載なのであった。
ワインセラーでは何種類か有料でティスティングが出来ると聞いてワクワクしていたが、スタッフに尋ねたところ、年代物のサーバーが壊れていて提供できないとの事だった。。残念。
諦めきれる訳もなく、スタッフに地元のお勧めのワインバー情報を聞き出し、一人飲みに行くことに。
30歳であるという店主が2年前に個人で開いたという小さいワインバーだ。
ワインを頼みながら、何か食べ物を頼もうとすると、冷蔵庫が壊れており、食事は提供できないとの事だった。
(あらゆるものが壊れている事はイタリア旅行の時に慣れていた)
日本には輸入されないだろうパレスチナ産ワインなどを飲みながら、店主と世間話をしながらワインを愉しむ事が出来た。
バーで飲んだ後は、フラフラと新市街を物見遊山に歩く。
腹が減り、ワインバーの店主におすすめされたサンドウィッチを食べた。
いや、食べ過ぎた。
そして、ガイドブックで知った事だが、イスラエルではクラフトビールも盛んらしく、その足で近くのビールバーにも訪れた。
フレンドリーなスタッフとビールを片手に村上春樹の話や日本とイスラエルのカラオケの違いなんかを雑談しながら、エルサレム最後の夜は過ぎていった。
エジプト-イスラエル旅行記vol.8
ヘブロンの闇
道中、イスラエル軍の関所も各所にありながら何やら緊張感のある高速道路を走り、無事ヘブロンに辿りついた。 ヘブロンの観光名所は、世界三大一神教の祖の眠るアブラハム・モスクだ。
モスク観光もそこそこに、ヘブロンの市場に足を向ける。
市場の活気はなく、シャッター街のようになっており、市場の天井には厳めしい鉄柵が張り巡らされている。 市場の上部はイスラエル軍に占拠されており、嫌がらせにゴミを投げてくるため、その対策だという。
どちらに正義があるのか、誰がテロリストなのか、何が正解なのか。
もはや、誰も分からなくなってしまっている。
市場から車に戻り、ベツレヘムに戻る道中に遅めの昼飯を食べる。
鳥の丸焼き・オン・ザ・サフランライス パレスチーナ郷土料理。
美味いんだけどドサクサでイスマイルの分も奢られたのに腹が立った。
ようやく自由探索
ゴリ押し営業のイスマイルにそこそこカモられながら、ベツレヘムに戻りようやく自由散策の時間になった。
ベツレヘム中心地を散策し、景色を目に焼き付けながら帰りのバス停に向かった。
無事にエルサレム行きのバスに乗り込み、帰る途中、検問でバスが停車した。 行きのバス(エルサレム→パレスチナ自治区)では無かった、イスラエル軍によるテロ対策のためのセキュリティチェックだ。パレスチナ人は身分証明書を片手に炎天下の路上に並ばされ、ボディチェックを受ける。
その後、銃を持ったイスラエル軍女性がバスに入り多少緊張したが、日本のパスポートを見るや、興味なさげに一瞥しただけで特に質問を受ける事も無かった。
これが今だ続くパレスチナ問題のリアルなのだな、と思った。
エルサレムに戻って少し時間があったので、改めて城壁の中を観光したり、ボルダリングをしたり、ビールを飲みながら長い一日は終わっていくのだった。
エジプト-イスラエル旅行記vol.7
パレスチナ自治区へ
翌朝、エルサレムからバスでパレスチナ自治区ベツレヘムに向かった。
イスラエルに来るまで、ニュースやYoutube解説をいくら見ても分からなかった「パレスチナ/イスラエル/エルサレム/ガザ地区/ヨルダン川西岸/テルアビブ」というワードも、旅の体感を通して理解と整理を進める事ができた。
パレスチナは地名であり、ここに戦後1948年の現イスラエル建国まで住んでいたのがアラブ系のパレスチナ人(パレスチーナ)なのだ。
ユダヤ人は約2000年前にローマ支配にあったパレスチナから追放され、国を持たずに各地に離散していた。しかし、歴史上、各地での度重なるユダヤ人迫害に加え、自国を持たない事による理不尽と不満はナチス-ドイツのユダヤ人絶滅政策をダメ押しに、ユダヤ人国家イスラエル建国を強行する事になった。
ユダヤ人は2000年の間、故郷を持つことを悲願としていた流浪の民族なのだ。
(ちなみにユダヤ人とは、人類学的な分類ではなく、「ユダヤ教を信仰する人々」を民族として捉えた概念であるらしい。このため原理的には、日本人である僕らも適切な手順を踏めばユダヤ人になる事は可能なのだ。非常に大変であるらしいけれども)
しかし、2000年の間にそれまで定住していたパレスチナ人にとっては、知った事ではない。当然、アラブ諸国との抜き差しならない対立を生む事になった。しかし、最強国家アメリカのバックアップを受けて組織されたイスラエル国防軍は非常に強力で、5度に渡る中東戦争で、そのほとんどの土地を手中に収めてしまった。
そのように分断されたパレスチナ人の土地の中の一つが、エルサレムからバスで30分程度の場所にあるベツレヘムだ。
(ちなみに、イスラム教を信仰するパレスチナ人からしてもパレスチナは聖地であり、彼らの首都であった場所である。いや、今も尚そうなのだ)
この辺りの歴史的背景を、世界史をまともに学んで来なかった自分としては整理出来る良い機会になった。
さっそくカモられる
ベツレヘムにバスが到着してすぐに、観光タクシードライバーによる客引きに遭遇した。通常であれば、断固拒否!っといった所だったが、まあしつこくしつこくゴリ押し営業をかけてくる。
10分程度の推し引き交渉の後、当初の提示価格の半額になった所でこのタクシードライバーに身を委ねてみる事にした。
実は確かに、ベツレヘムの観光スポットは歩いてみるには結構不便だったりしたのだ。
パレスチーナドライバーは、イスマイルと名乗った。
イスマイルのガイドの下、ベツレヘムに建築された「分離壁」を見る。
分離壁はイスラエル側へのパレスチナからのテロ対策を目的に2002年に着工された現状約700kmにも渡る長大な塀だ。今も尚、未完成であり両領土を分かち続けている。
パレスチナ人からすれば、自分の生活領域を突然、何の配慮も無く機械的に分断された事になる。イスマイルが小さい頃に着工が始まったため、彼も子供ながらにその時の事は覚えているとの事だった。
歴史や対立には両面が存在する。西洋史観で教育をうけてきた日本人の自分としては、知識の後ろ側にスポットライトを当てているような気持ちだった。
ちなみに、この分離壁やベツレヘム内にはいくつもの有名なバンクシーアートが点在している。
一通り、ベツレヘムの観光が終わった所で、イスマイルは色々な営業をかけてくる。
「あそこに、小高い山があるだろう?あそこも観光名所さ。どうよ、追加費用は・・・」
「明日死海に行くだって?今からだってタクシーでいけるさ。どうよ、追加費用は・・・」
「ヘブロンに行きたいだって?もちろん行けるさ。どうよ、追加費用は・・・」
・・・ん?ヘブロン行けるの?
パレスチナ自治区の中でも、ベツレヘムはエルサレムに近く、渡航レベル2だ。ここからさらに小一時間南下し、さらにディープにパレスチナ自治区を進めば、渡航レベル3のヘブロンにいく事ができる。
当初、バスのアクセスから時間がなく、半ば諦めていた所だが、どうやらタクシーでも行けるとの事だった。
「よし、ヘブロンに行こう!」
こうして、イスマイルの口車に乗って、このまま彼の車に乗っていく事になった。
ガッツリ追加料金を払う事になって。